歴史

~三四〇余年の連なり~

戦国から泰平へ

関ヶ原の戦いで敗れた西軍に属していた吉川家は、出雲国等14万石から岩国3万石へ移封となりました。まだ、いつ戦になってもおかしくない緊迫した時勢です。領主・吉川広家は、横山を政務の中心に定めます。それは、錦川を挟んで山を背負う地形が、防衛にも有利だったからです。
錦川により分断された城下町を繋ぐため、早くから橋が架けられました。しかし、洪水の度に橋は流失していました。
やがて幕藩体制がととのい、平和な時代が訪れると、「流されない橋」を架けることが、岩国領の悲願になりました。

『御領内乃図』(1668年)
錦川を挟み、城山を背にした所に領主や一部家臣の居館、対岸をその他大半の家臣・町人の地にしました。
(所蔵/岩国徴古館)

橋の着想と創建

3代領主・広嘉は橋の研究に取り組みますが、解決策は容易には見つかりません。
ある時、広嘉は明の僧・独立から、名勝・西湖の本を入手します。そこには、5つの小島を繋ぐ6つのアーチ橋が描かれていました。これにより広嘉は錦帯橋の着想を得たと伝わります。
それは、錦川に4つの橋脚を築き、それらを5つの橋によって繋ぐというもの。これの実現のため、戦国の世に培われた土木・建築技術に加えて、更なる研究が重ねられました。
そして1973年、着想と技術が実を結び、錦帯橋は創建されました。

『西湖遊覧志』の挿絵
西湖(中国)の島々を渡る橋の絵に、広嘉は錦帯橋の着想を得たと伝わります。(所蔵/岩国徴古館)

3代岩国領主
吉川広嘉
(1621-1679)
錦帯橋を架橋。

時代を渡る橋

創建の翌年、錦帯橋は洪水に伴う橋脚の崩壊によって、流失してしまいます。しかし、すぐに復旧に取り掛かり、年内には再建を果たしました。
その後は、修復と架替えを重ねながら、長い間、人々の往来を支えてきました。
1950年には、台風による流失を経ながらも時代を渡り、今もなお、同じ場所に、同じ姿で在り続けています。

~意 匠 Design~

1699年のものを最古とする12枚の図面と、近代以降の実物大「型板」の存在。これらは、錦帯橋のデザインが300年以上の時を超えて受け継がれていることを証明しています。

~材 料 Material~

主要構造材・化粧材にはヒノキ等の腐食しにくい材を使い、補強材にはマツを使うなど、木材の性質や経済性、調達可能性に応じた素材選択が行われています。

~技 術 Workmanship~

写真や動画が発達する前にあっても、架替えを契機とした度重なる作図により、架橋技術は伝えられました。
これにより、300年前と変わらぬ姿の錦帯橋が現存しています。

~位 置 Setting~

近世の古地図を検証すると、錦帯橋の位置が現在まで変化していないことが分かります。また、過去の架橋の記録からも、その位置に変化がないことが読み取れます。

最古の図面

『錦帯橋掛替図面』(1699年)現存する最古の図面 所蔵/岩国徴古館

1600 慶長 5 関ヶ原の戦い
吉川広家、岩国付近3万石を受領
1664 寛文 4 吉川広嘉が『西湖遊覧志』をみて、錦帯橋のアイデアを得る
1673 延宝元 錦帯橋の創建
1674 延宝 2 洪水により流失
再建
1677 延宝 5 錦帯橋周辺の河床に捨石をして、敷石を補強
1699 元禄12 現在する最古の図面が描かれる
1871 明治 4 廃藩置県
1922 大正11 国の名勝の指定を受ける
1943 昭和18 名勝区域の追加指定を受ける
1950 昭和25 キジア台風により錦帯橋流失
1951 昭和26 昭和の再建開始(1953年 昭和28年 完了)
2001 平成13 平成の架替え開始(2004年 平成16年 完了)

明治期の錦帯橋

錦帯橋より下流の山から撮影された写真。左に横山の町並み。住居がまだ土手沿いにあるが、錦帯橋は現在と同じ位置に存在している。

明治31年 架替工事

昭和25年 台風による流失

平成13年 架替工事 桁組